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綾部の偉人

 

足利尊氏 波多野鶴吉 植芝盛平
1305年、足利貞氏の長男として綾部市で出生。室町幕府の初代征夷大将軍(在職:1338年 – 1358年)。足利将軍家の祖。  

1858年、綾部市で出生。
1896年(明治29年)郡是製絲株式会社(現・グンゼ株式会社)を創業。

合氣道の創始者。1883年(明治16年)、和歌山県西牟婁郡西ノ谷村で出生。1920年(大正9年)、綾部に移住。

 

三得(勇気、慈悲、無欲)の将 足利 尊氏

 


元弘3年(1333)5月7日、丹波篠村(京都府亀岡市)篠八幡宮で足利尊氏は挙兵し、京都六波羅探題に攻め上がった。先祖、源義家が足利家に残した置文に記した天下取りの悲願に向かってー。そして暦応元年(1336)足利一族の悲願は、尊氏が建武式目を定め室町幕府を開いたことで達成される。

尊氏は、延元元年(1305)母・清子の実家、上杉氏の所領であった丹波国上杉庄(綾部市上杉町)で生まれた。「産湯」を汲んだ井戸や産着で作られた袈裟などが現在も残されている。その54年の生涯は、流浪と離別とともにあった。鎌倉から京、京から鎌倉、再び鎌倉から京、そして九州を経てみたび京へ。そして、後醍醐天皇との確執、執事の高師直や実弟・直義の殺害など、政の利権をめぐる戦いに翻弄され続けた。征夷大将軍にまで上り詰めた武将には不釣り合いなほど、悲運の影が付きまとう。

高僧・夢想疎石は「合戦に命を捨てねばならないようなときでも、笑を含んで畏怖の心がない。慈悲心は天性であって人を憎むことがない。心が広大であって物惜しみ気なし」と尊氏を評し、彼の人徳と勇気、慈悲、無欲をたたえている。彼の生涯にわたる苦難の道は、戦国の武将らしからぬ優しさがもたらしたものなのかも知れない。

四季の移ろいに様々な表情を見せる古刹「景徳山安国寺」。この寺の片隅にひっそりと佇む三基の宝篋印塔。中央に尊氏、脇を固めるのは母・清子と妻・登子。波乱万丈の生涯を生きた彼にとって、悠久の平安が得られるこの地は、終の棲家としてふさわしい場所と言えるだろう。

<足利尊氏の足跡>

1305 足利貞氏の長男として綾部市で出生。幼名は又太郎
1319 元服して高氏と名のる
1331 後醍醐天皇による元弘の乱の際、笠置攻めに出陣
1333 六波羅探題を攻め、鎌倉幕府が滅亡
1334 後醍醐天皇から鎮守府将軍に任じられ天皇から「尊」の字を賜り、尊氏と改める
1336 京へ攻め上るが敗れ、九州へ落ちる。再び勢力を拡大し、楠木正成を湊川で破り、京へ入る。光明天皇を立て室町幕府を開く。南北朝時代
1338 征夷大将軍に任じられる
1339 後醍醐天皇の追善に天龍寺を創建
1351 執事・高師直を処刑
1352 実弟・直義を処刑
1358 4月没(享年54歳)

全国足利氏ゆかりの会 http://www.ashikagauji.net/

<ゆかりの地めぐり>

■安国寺
安国寺は、14世紀半ば、室町幕府の初代将軍、足利尊氏により創建された由緒ある寺院です。この寺院は尊氏が出生した地ともいわれており、境内には産湯の井戸や尊氏とその母・上杉清子の墓も残されています。
本堂には尊釈迦三尊坐像など国の重要文化財も多数所蔵し、綾部の歴史を伝える貴重な文化遺産となっています。
秋の行楽シーズンには境内が紅葉で色づき、多くの観光客が訪れます。毎年、11月中旬には「安国寺もみじ祭り」が賑やかに開催されます。

国には国是、郡には郡是 波多野 鶴吉

 

波多野鶴吉は、安政5年(1858)羽室嘉右衛門の二男として誕生し、慶応2年(1866)波多野家の養子となった後、志を求め京都へ遊学。数学者を目指す傍ら、自由民権運動を展開した岩滝町出身の小室信夫らとともに、政治活動にも参画した。しかしいずれも夢破れ、明治14年(1881)綾部に失意の帰還をする。

当時、郡内には器械製糸工場が72あったが、いずれも零細な経営であった。
また、その品質は「粗の魁たらん」とまで評された粗悪品だった。鶴吉は、明治29年に「郡是製絲株式会社」を設立し、製糸業の集約化を図り、生産力と品質の向上を目指した。

「グンゼ」。たった3文字の中に濁点が2つを占める社名に人々は最初、違和感を禁じえなかったという。農商務省元役人・前田正名が説く「一国に一国の方針、いわゆる国是としての富国強兵論」を耳にし、これに感化された彼は、山間の農村に芽生えた企業の名として「郡是」を選んだ。

鶴吉には一貫した理念があった。それは「善い人が良い糸をつくる」というもの。何となく善い、何となく悪いというのは、その糸をつくる人の心の持ち方と関係する、ここが教育の大切なところであり修養の大切なところでもあるとした。
そこで創業の翌年に「夜学会」を開き従業員に対し算術や読書、裁縫などが教えられ、社員教育に力をいれる。いつしか郡是製糸株式会社は人々から「表から見ると工場、裏から見ると学校」といわれるほどになる。
明治時代、製糸業は「生死業」とまで言われ、数多くの女工哀史が語られたが、鶴吉は「工女は養蚕農家から預かっている大切な娘であり、株主から預かった大切な娘である。預かった以上は一同を立派に育てあげなければならぬ」と語り、自分の家族のように接した。

また鶴吉は共存共栄を目標に掲げ、「売って喜び買って喜ぶ」の精神のもと、繭や生糸の取引方法を信用取引に変更。養蚕農家や取引先との友好な関係を築き上げていく。

綾部駅から南へ伸びた商店街を抜け、市内が一望できる「南ヶ丘公園」には鶴吉の像がある。その視界には、市街地と「グンゼ」の社屋が納まる。

鶴吉は今日も綾部とグンゼの発展を見守り続けている。

<波多野鶴吉の足跡>

1858 6代目羽室嘉右衛門の二男として出生
1866 波多野家の養子となる
1875 京都に遊学
1876 波多野葉那と結婚
1881 京都から帰郷し、生家・羽室家に寄宿
1882 小学校の教員となる
1886 何鹿郡製糸業組合長に就任
1890 キリスト教の洗礼を受ける
1896 郡是製絲株式会社設立
1901 同社社長に就任
1917 郡是製絲株式会社を大正皇后が行啓
1918 脳溢血で他界(享年60歳)

<ゆかりの地めぐり>

■あやべグンゼスクエア
あやべ特産館、グンゼ博物館、綾部バラ園、道光庵の4施設からなる綾部市の観光交流拠点。平成26年オープン。

■綾部高校東分校・熊野新宮神社・市民センター
東分校付近には、高等養蚕伝習所(後に城丹蚕業講習所)、蚕糸業組合の事務所、京都府の養蚕検定所・試験場があった。市民センター付近には波多野記念館もあり、熊野新宮神社界隈から現府地方振興局あたりは、養蚕業の主要な施設が集中していたようだ

■丹陽教会
波多野鶴吉夫妻が信仰を深め、グンゼ精神を生んだ綾部最古のキリスト教会

■上野町
国内3カ所のうちのひとつとされる元国立養蚕試験場。大正6年には大正皇后の行啓が行われた

■月見町
大正2年開町。綾部の祇園として発展期の綾部の産業を支えた

■南ヶ丘
波多野鶴吉の銅像があるグンゼ記念公園。桜の名所

和合の武道 合気道開祖 植芝 盛平

 

人間の生きる道、あるべき姿を追い続けた一人の青年がいた。中学校を1年で中退、税務署に就職するが長続きせず、あげく東京出て商売に手を染めるものの、体調を崩し、結局、故郷和歌山県田辺市に体一つで舞い戻る。植芝盛平19歳。「人生は山あり谷あり」というが、彼の半生はまさに流転と苦難の連続だった。

明治16年植芝与六の長男として誕生。幼年期は自宅にこもりがちの静かな少年だった。しかし、小学校に上がると父の影響で次第に武術に興味を示し始める。

正義感と探求心が旺盛だった彼は、明治45年、一念発起し北海道開拓民として、紋別郡白滝原野に単身向かう。そこで盛平は、武道の鍛錬にいそしむ一方、役所との調整を始め、ハッカ栽培や酪農といった地場産業育成など白滝村の発展にも尽力。「白滝王」と呼ばれるまでになった。

大正8年、父危篤の報を受け、田辺市への帰路で平癒祈願に立ち寄ったのが、綾部だった。そこで、出口王仁三郎と出会い、人間の生きる道について説法を受ける。それにより、半生に亘り彼の心でわだかまり続けた答えをついに見つけ出す。盛平このとき36歳。

その後、彼は一家で綾部に移り住み、8年の歳月を過ごした。「植芝塾」を開き、武術の鍛錬と仕事(農業)は一心同体という「武農一如」のスタイルを確立する。そして、気・心・体の一致による合気武道の原型を創り上げる。

現在合気道は、世界85ヵ国に150万人もの愛好者を擁する一大武道に発展した。

「合気とは、敵と戦い敵を破る術ではない。世界を和合させ、人類を一家たらしめる道である」との盛平の精神が人々を惹きつけるのであろう。

<植芝盛平の足跡>

1883 植芝与六の長男として出生
1896 和歌山県第二尋常中学校中退
1896 田辺税務署に就職
1901 実業家を志し上京
1902 植芝商会を設立するも体調を崩し帰郷。はつと結婚
1903 大阪第四師団に入隊。銃剣術で脚光を浴びる
1912 北海道開拓民に応募し、白滝村に入る
1920 綾部に移住。修行道場「植芝塾」を開く
1924 出口王仁三郎と入蒙し辛酸をなめる
1925 合気の道を主唱
1927 再び上京し、道場を開設
1931 皇武館を建設
1940 茨城県岩間町に転居
1969 4月没(享年86歳)

<ゆかりの地めぐり>

■駅前広場
合気道発祥の顕彰碑が建つ

■本町通り
薬膳喫茶「悠々」、遠坂薬局、森田畳店、金龍餅など当時から営業している建物が残る

■大本本部 長生殿
能舞台近く(植芝塾跡)

■大本本部 本宮山(禁足地) 若宮神社(上野町)
植芝盛平が修行したとされる

■田野町 天王平
植芝家の墓がある

 


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