城・城址
明智光秀の丹波攻めにより落城
小畑城跡
小畑城跡は、東西に流れる伊路屋川に向かって北から南に延びる丘陵の頂部に位置します。
城は標高103mの小高い丘陵地を利用しています。 城跡は、尾根の北側に堀切を設け、その南側を城域としています。
城域の最高所に位置する主郭は、長さ約50m、幅約20mの広さをもち、北辺には土塁を設けています。土塁の北側には堀切を配し、その北側にはさらに土塁状の高まりがあり、その先は自然地形を利用した深い堀切となっています。
主郭の南辺にも土塁状の高まりがあり、高まりの北端から南側の曲輪へ続く道が接続し、さらに山麓へつづら折れの道が繋がっています。
主郭の南側には何段かの平坦面が作られていますが、その一つに稲荷神社が祀られています。南西側の山麓からこの神社への参道が現在の登山道となっています。
小畑城の城主は、『丹波志』等の資料に戦国時代後期にこの地域の領主となった波々伯部氏と伝えられています。
城跡の整備は、地元の方々が、企業や府立林業大学校と一緒に、モデルフォレスト事業で植樹や環境整備に努めています。
城は標高103mの小高い丘陵地を利用しています。 城跡は、尾根の北側に堀切を設け、その南側を城域としています。
城域の最高所に位置する主郭は、長さ約50m、幅約20mの広さをもち、北辺には土塁を設けています。土塁の北側には堀切を配し、その北側にはさらに土塁状の高まりがあり、その先は自然地形を利用した深い堀切となっています。
主郭の南辺にも土塁状の高まりがあり、高まりの北端から南側の曲輪へ続く道が接続し、さらに山麓へつづら折れの道が繋がっています。
主郭の南側には何段かの平坦面が作られていますが、その一つに稲荷神社が祀られています。南西側の山麓からこの神社への参道が現在の登山道となっています。
小畑城の城主は、『丹波志』等の資料に戦国時代後期にこの地域の領主となった波々伯部氏と伝えられています。
城跡の整備は、地元の方々が、企業や府立林業大学校と一緒に、モデルフォレスト事業で植樹や環境整備に努めています。
スポットデータ
名称 | 小畑城跡 |
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住所 | 京都府綾部市小畑町 |
アクセス | 【自動車】舞鶴若狭自動車道綾部インターから約17分 京都縦貫自動車道綾部安国寺インターから約25分 |
駐車場 | 高源寺の駐車場をご利用ください。 |
アクセスマップ
三坂女﨟物語
天正7 年の猪崎城塩見氏滅亡に関わる哀史が今日に語り伝えられています
天正7 年7 月24 日(一説には8 月18 日) 猪崎城主塩見播磨守は明智光秀の軍勢に攻められ、城に火を放って逃れようとしたが討手に命を奪われた。城主の妻は、小畑城主波々伯部源内の娘で、落城により小畑に逃れようとし三坂峠にさしかかった際、追っ手のために殺された。追っ手が、血刀を洗った言われる「みたち池」は鍜治屋町にあって、その池の水は今でも濁っていて澄むことはないと言われている。「みたち池」(「身断ち」と「御太刀」の2説)は、池と周囲が整備されている。
注)画像クリックで拡大表示